鎮漣の死と柳川の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 鎮漣の死と柳川の戦いの意味・解説 

鎮漣の死と柳川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:00 UTC 版)

蒲池鎮漣」の記事における「鎮漣の死と柳川の戦い」の解説

鎮漣は頑なに断り続けるが、隆信使者執拗かつ丁重に漣の母や重臣説得してまわり、ついに断りきれなくなった鎮漣は兄・鎮久を初め選りすぐり屈強な家臣200名を連れて柳川出発する。鎮漣の従兄弟留守役をつとめた家老大木統光が鎮漣の肥前行き中止進言するが、鎮漣の決意変えることはできなかった。 筑後川渡って肥前入った鎮漣は佐賀城隆信嫡男政家歓待を受けるが、その翌日与賀神社近く龍造寺部隊襲撃される蒲池氏200精兵奮闘するも、多勢に無勢で鎮漣は自害、鎮久を初め漣の郎党全員討死した。戒名本源院殿哲心覚英大居士。 鎮漣の死を見届けた隆信は、時を置かず柳川の鎮漣一族抹殺命じ鍋島直茂督戦の下、田尻鑑種柳川に兵を進め柳川戦いが行われた。これには諸将驚き隆信腹心からも疑問持たれた。龍造寺四天王一人百武賢兼出陣促すに対して「こたびの鎮漣ご成敗お家を滅ぼすであろう」と答えて涙を流し最後まで出陣しなかった。龍造寺氏にとって、蒲池鎮漣島津氏支配下に入ることは絶対に許せないことではあったが、鎮漣の一族まで根絶やしにしたことは、隆信対す筑後の有力国人の強い反発離反招いた。 なお、鎮漣の妻・玉鶴姫は父隆信が夫を殺害したことを知ると、実家龍造寺家には戻らず、鎮漣の後を追うべく蒲池氏支城のある塩塚自害している(現在、「史跡蒲池鎮漣夫人百八殉難之地」の石碑がある)。(玉鶴姫意地)。

※この「鎮漣の死と柳川の戦い」の解説は、「蒲池鎮漣」の解説の一部です。
「鎮漣の死と柳川の戦い」を含む「蒲池鎮漣」の記事については、「蒲池鎮漣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鎮漣の死と柳川の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鎮漣の死と柳川の戦い」の関連用語

1
18% |||||

鎮漣の死と柳川の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鎮漣の死と柳川の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの蒲池鎮漣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS