銃器と自動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:12 UTC 版)
「ハイラム・パーシー・マキシム」の記事における「銃器と自動車」の解説
1892年からマサチューセッツ州リンのアメリカン・プロジェクタイル社に勤務した。マキシムは、内燃機関を作ろうとして、上手く行かなかった。後に、ドイツのマイバッハ、ダイムラー、ベンツによるエンジン開発について知らなかったと述べ、「小さなエンジン1台を作るのにも非常に時間がかかることに驚いた」と述べている。ようやく内燃機関の燃焼に成功したが、振動がひどく、油、火、煙などを吹き出すという代物だったという。 1895年初頭、マキシムはアルバート・ポープ(英語版)の元を訪れ、それにより、彼が経営するポープ・マニュファクチャリング・カンパニー(英語版)の自動車部門で働くことになった。同年11月に開催されるシカゴ・タイムズ=ヘラルド・レース(英語版)に向けて自動車を開発したものの間に合わず、審判として参加した。会場でマキシムは、モリス&サロム社が製作した世界初の電気自動車であるエレクトロバット(英語版)IIに乗せてもらった。1899年、コネチカット州ブランフォード(英語版)でアメリカ初のクローズドサーキットでの自動車レースが開催され、マキシムが運転するガソリンエンジンのポープ・コロンビア号が優勝した。 マキシムは、初めて商業的に成功した銃器用サプレッサー(サイレンサー)を1902年頃に発明してその製造・販売を行い、1909年3月30日に特許を取得した。マキシムは、自身が発明した装置を「マキシム・サイレンサー」(Maxim Silencer)という商標で売り出し、雑誌に広告を掲載した。 また、サイレンサーの技術を応用して内燃機関用マフラーを開発した。英語圈の国の多くでは、自動車のマフラーは「サイレンサー」と呼ばれている。
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