鉄甲船の要目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 08:22 UTC 版)
本船の存在は信長の側近・太田牛一の著した『信長公記』、多聞院の英俊が記した『多聞院日記』、宣教師オルガンチノのルイス・フロイス宛の報告書などに記載が見られるが、詳細については詳らかではなく、未だ定説を見ていない。明らかなのは大砲をいくつか搭載していたということである。 寸法 『多聞院日記』によると長さ12~13間(21.8m~23.6m)、幅7間(12.7m)と記述されている。 これは天正元年(1573年)に琵琶湖湖畔の佐和山において、丹羽長秀の指揮のもと、寸法が長さ30間(約55m)幅7間(12.7m)の大船が建造された例(『信長公記』)が存在するため、建造不可能とはいえない寸法である。反面、『多門院日記』による寸法ではこの丹羽長秀による大船よりも大幅に船長が短く、縦横比が低いために航走には適さない船型になる。これは船体幅では無く、艪を操作するため両舷に張り出した艪床を含んだ最大幅を指すものと考えられる。 装甲 本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。 しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。第二次木津川口の戦いについて詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」とあるだけで装甲の有無には触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている。 乗員 『多聞院日記』によると、「人数五千人程のる」とあるが、その寸法からこの人数を載せることは難しいと考えられる。一方で『多聞院日記』は伝聞によるものであり、『信長公記』には九鬼嘉隆が6隻建造した旨が記載されており、5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする意見もある。 動力 本船の動力については特に記載はないが、通常の安宅船と同じく艪、および起倒式の木綿帆によるものと推定されている。仮に鉄張り装甲を施していた場合、重量を増した船がこの方式で実用に耐えうる速度で航行できるかは不明である。
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