金武間切時代とは? わかりやすく解説

金武間切時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:40 UTC 版)

金武町」の記事における「金武間切時代」の解説

現在の金武町該当する土地には貝塚時代から人間暮らしていたことがわかっているが、「金武」の地名いつごろ発生したのかは不明である。1501年建てられ第二尚家陵墓玉陵たまうどぅん)の碑文に「きんのあんし(金武按司)」という刻銘があることなどから、少なくとも15世紀末頃には支配者がいて金武間切があったものと推察される。1564年以降第二尚氏王統5代尚元王三男尚久元祖とする金武御殿当地治めためた。 間切時代金武は、現在の金武町恩納村宜野座村名護市一部またがっており、間切番所喜瀬武原現在の金武町恩納村にまたがる地域)に置かれていた。1673年恩納瀬良垣安富祖名嘉真の4集落恩納間切として、久志辺野古の2集落久志間切として金武間切から分離した。これにより、古知屋・宜野座・惣慶漢那並里金武伊芸屋嘉の8集落金武間切領域となった(古知屋・宜野座・惣慶漢那現在の宜野座村)。 1522年補陀落渡海行っていた日秀上人が福花原上陸し金武観音寺創建 1853年5月ペリー艦隊琉球訪れ各地調査した際、金武間切では並里集落北側の丘で宿営行った当時西洋人全て「ウランダー(オランダ人)」と呼んでいたため、そのは「オランダ」と呼ばれるようになった1882年金武小学校創立 1899年當山久三指導による沖縄初の海外移民事業開始金武間切出身者中心とした26人がハワイ送り出される 1890年:嘉芸簡易小学校(現・嘉芸小学校創立 1904年フィリピン移民始まる。移民たちははじめ道路工事就いたが、翌1905年大城孝造に引率されミンダナオ島ダバオ移住しマニラ麻栽培従事した

※この「金武間切時代」の解説は、「金武町」の解説の一部です。
「金武間切時代」を含む「金武町」の記事については、「金武町」の概要を参照ください。

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