金森頼錦藩主となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
元文元年5月23日(1736年7月1日)、郡上藩主金森頼旹は江戸芝の仮藩邸で没した。頼旹の長男であり嫡子であった金森可寛はすでに亡くなっていたため、可寛の長男である頼錦が元文元年7月18日(1736年8月24日)に正式に郡上藩藩主の地位を継承した。頼錦は藩主継承時23歳であった。金森頼錦は自ら絵筆を取って寺社に絵馬を奉納し、また現在まで頼錦が描いた絵画が遺されており、歌集、漢詩集の編纂を行い、盛んに詩碑の建立を行うなど、詩歌、書画を好んだ文化人であった。そして時の将軍徳川吉宗は、金森頼錦が学問の志厚く、天文に興味を持っていることを聞き及び、延享元年(1744年)、頼錦に対して郡上八幡で天文観測を行い、その成果を報告するよう命じた。頼錦は吉宗の命に従い郡上八幡で天文観測を行い、翌延享2年(1745年)に観測結果を献上したとの記録が残っている。 延享4年(1747年)、金森頼錦は奏者番に任じられた。奏者番は大名や旗本らが将軍に拝謁する際の取次ぎや、法要や大名家の不幸に際して将軍の代参を行う等の役目を担っており、将軍の身近で仕事をこなすために高い能力が必要とされた。そのため幕府内で有望株と目される若手大名が任命されるポストとされ、奏者番で有能であると認められれば、奏者番に寺社奉行の兼任を命じられ、その後大坂城代、京都所司代を経て若年寄そして老中へと出世していく道が開かれた。奏者番に任じられた頼錦の前途は明るいものと思われた。 だが、奏者番は職務上諸大名らとの広い交際を必要としまた社交も派手になるため多くの費用が必要となった。藩邸の再建を抑えた祖父の頼時とは異なり、藩主継承後まもなく藩邸の再建に取り掛かったり、盛んに詩碑の建立を行うなど、文人肌の金森頼錦の生活は元来派手な面があったが、奏者番就任後は衣服等が華美になっていくなど、ますますその派手さを増していった。
※この「金森頼錦藩主となる」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「金森頼錦藩主となる」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。
- 金森頼錦藩主となるのページへのリンク