野原水嶺との婚姻
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中城ふみ子が中央歌壇で脚光を浴びるようになる直前の1953年末、大塚陽子や中城らが加入していた「新墾」で内紛が発生した。山名康郎ら、「新墾」内の若手が幹部の小田観螢、野原水嶺らに反旗を翻したのである。中でも強い突き上げを喰らったのが野原水嶺であった、新墾1953年10月号で山名康郎は野原水嶺をその容姿に至るまで厳しく批判した。山名は「新墾」内の若手女性歌人の多くが「野原が濫用するぼかし塗り的の技法の安易さ」の影響下にあると指摘して、野原水嶺の影響下から抜け出すよう訴えた。結局、山名ら「新墾」の若手歌人の多くが脱退して新たに「凍土」を立ち上げることになった。 個性が強い野原水嶺は、独善的で陰険との評があって敵も多かった。その一方で水嶺は女性に対してはまめであり、女性問題の噂が絶えなかった。1955年頃、かねてから水嶺の弟子であった女性が自殺し、水嶺に裏切られたために自殺をしたとの噂が広まった。またこの頃、「新墾」内で大塚陽子との親密な関係も問題となりつつあった。このような状況下で「新墾」では主宰の小田観螢と水嶺との確執が強まっていた。 結局、1955年末に「新墾」で査問委員会が開かれ、選者辞退を迫られ、その後除名処分となった。水嶺の選者辞退を見た陽子は「新墾」を脱退する。野原水嶺は戦前、十勝短歌会を立ち上げていて、戦後、十勝短歌会を母体に「辛夷」を創刊した。「新墾」を追放された水嶺は「辛夷」に専念することになったが、「辛夷」でも水嶺を弾劾する動きが出た。「辛夷」の方はベテランが事態を収めたものの、水嶺にとって厳しい状況が続いた。この水嶺の試練は、一方では大塚陽子との仲を深める原因のひとつとなった。 この頃、大塚陽子は真駒内にあった自衛隊北部方面総監部でタイピストとして就労していた。同じ頃、本州から来ていた人物が陽子のことを見初め、野原水嶺の勧めもあって1956年7月に結婚した。まもなく夫は帯広に転勤となり、陽子も帯広で暮らすことになった。予定ではその後間もなく本州に再転勤が予定されており、親密な関係であった水嶺と陽子であったが、陽子の夫の本州転勤で離れることでお互いあきらめもつくと考えていた。ところが夫の本州転勤が延期となり、帯広での生活が続くようになった。帯広暮らしが続くことが判明すると陽子は夫との同居を解消し、一人暮らしを始めた。ほどなく夫とは離婚となった。また水嶺の斡旋によって国立十勝療養所にタイピストとして就職した。 野原水嶺は大塚陽子よりも30歳年上で、大塚の両親と同い年であった。また陽子の父のことを知る人物によると、水嶺は陽子の父親によく似ていた。水嶺はかねてから妻との関係が悪化しており。大塚陽子との関係が周囲の噂になるにつれて夫婦関係はより険悪になった。 水嶺と陽子が深い関係になっていくにつれて、水嶺の夫婦関係には決定的な亀裂が入った。しかし水嶺の妻は協議離婚には応じず裁判になった。当時、大塚陽子が水嶺を奪った、人の道に外れている、自由奔放な女である等の様々なうわさが飛び交い、水嶺も長年勤めていた教職を退職に追い込まれた。1962年に父が亡くなり、母を引き取った直後に水嶺の離婚調停が成立し、3人で暮らすようになった。1965年、野原水嶺は大塚陽子と生活を共にしていることを公表する。 人の夫奪ひし重さはげしさにあわれ漂泊の思ひはやまず
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