鄭益恩とは? わかりやすく解説

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鄭益恩Zheng Yien

テイエキオン

170?~196?)
孝廉

名を益、字を益恩という《後漢書鄭玄集解》。鄭玄の子鄭小同の父。兄弟はなかった《後漢書鄭玄伝》。

建安年間一九六~二二〇)、鄭玄病気にかかると益恩に手紙送って遺訓伝えた。「今年でもう七十歳になり、随分と前から老いぼれ失敗ばかりするようになった礼典調べると家業継がせる時期とある。いま爾(おまえ)に家業託し、我は静かに余生送りつつ死について想いをめぐらそうと思う。家業については、大なり小なり汝が全て継承してくれ。」《後漢書鄭玄伝》

「さあ君子の道を追求し、止むことなく研鑽して威儀整え有徳者に近付くのだ。仲間たち評判勝ち取り、志を貫いて徳行打ち立てるのだ。もし名声馳せて豊かな暮らし手に入れても、気を抜いてはならぬぞ!いま我が家は昔とは違っておるが、野良仕事精を出し飢え寒さ負けことなく飲食粗末なもので済ませ衣服薄くするのだ。吾に心配させないでくれよ。もしそれ忘れてしまうようなら、もうおしまいだぞ!」《後漢書鄭玄伝》

鄭益恩が二十三歳のとき、北海国の相孔融は彼を孝廉推挙した。のちに袁譚北海包囲したとき、益恩は危険を顧みず駆けつけ落命した。ときに二十七歳《後漢書鄭玄伝・同集解》。

袁譚」は原文黄巾」とする。『集解』に引く周寿昌説にいう。「孔融黄巾賊管亥包囲され太史慈劉備救援求めたのは初平二年(一九一)のことであり、このとき鄭玄六十五歳だったのだ。建安年間鄭玄七十歳になったと言っているのはおかしい。しかし益恩に与えた手紙では、『曲礼』に『七十歳老人といい、家事継がせる』とあるのを引用しているので、年齢書き間違いとは考えられない。『孔融伝』に建安元年一九六)、孔融袁譚に城を攻められたとあるので、益恩が落命したのはこのときのことではないか范曄が『袁譚』の二字を『黄巾』と誤ったのである。」そうすると鄭玄病気にかかり遺訓垂れたのは建安元年ということになる。なお鄭玄の死は、それ以後建安五年のことである。

参照袁譚 / 孔融 / 鄭玄 / 鄭小同 / 北海国 / 孝廉 / 相




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