管亥
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初平二年(一九一)、北海国の相孔融は黄巾賊を討伐せんと都昌に入城したが、そこで賊将管亥の包囲を受けた。城内に孔融の恩義を蒙っていた太史慈という者がいて、二人の騎兵を連れて城外に出た。包囲陣の兵士たちが驚いて兵馬を繰り出すと、太史慈は馬首を返して堀の内側に入り、騎兵に持たせていた標的を地面に突き立てた。そしてまた堀を出てその標的を弓矢で射抜き、それから城門に入った《太史慈伝》。 太史慈は翌朝も同じようにして標的を射たが、包囲陣の兵士たちには立ち上がる者もいたし、寝そべったままの者もいた。その翌日も同じように城外に出ると、今度は立ち上がる者はなかった。そこで太史慈は馬を鞭打って包囲陣を突破し、平原に向かい、平原国の相劉備から精鋭三千人を借りて戻ってきたので、管亥らは包囲を解いて逃げ去った《太史慈伝》。 |
管亥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 05:17 UTC 版)
管亥 | |
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![]() 関羽(右)、管亥(左)を討つ | |
後漢 黄巾軍頭目 | |
拼音 | Guǎn Hài |
主君 | 張角 |
管 亥(かん がい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の人物。黄巾党頭目の1人。
正史の事跡
初平2年(192年)頃、黄巾軍討伐のために都昌へ進軍して来た北海郡の孔融を逆に包囲した。しかしこの時、孔融に母の世話をしてもらっていた太史慈が、恩を返そうと孔融の下に馳せ参じた。太史慈は、武勇と策略で管亥の包囲を突破し、平原郡の劉備に救援を要請した。劉備が直ちに精鋭兵3千を救援に差し向けたため、管亥軍は散り散りに潰走した。その後、史書に名は見当たらない。
三国志演義
小説『三国志演義』では、勇猛な黄巾党頭目として登場し、その軍勢の規模も数万となっている。史実通り孔融を包囲した後、その部将宗宝を数合で討ち取っている。しかし、やはり史実通り太史慈の要請に応じた劉備軍が援軍として現われたため、管亥は関羽と一騎討ちを繰り広げる。管亥は善戦し、数十合も渡り合ってその力量を示したが、最期は関羽の一撃に両断され果ててしまう。
参考文献
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