運ぶための堀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 02:48 UTC 版)
現在新潟市中央区の一部となっている新潟島では、物流と人の往来のために堀が掘られた。新潟という地名からもわかるとおり、この周辺は元々低湿地であったが、信濃川や阿賀野川の治水によって開拓され、江戸時代には「新潟湊」として、周辺で収穫される米を北海道や上方、江戸へ運ぶ北前船の寄港地として重要な物流拠点となっていた。北前船から荷物を積み換えられた小舟が港から堀を使用して市街地へと、薪や炭、野菜などの生活必需品運搬のほか、人の往来にも使用され、堀と通りが町づくりの軸になっていった。堀は縦横に張り巡らされ、縦堀はどの屋敷にも接するように配置され、横堀は信濃川からの運び込み、町からの運び出しに使われた。堀の大きさは、主に米穀類を運んだ白山堀(現在の白山神社と古町通りの間、一番堀)が幅14間(約25.2m)、深さ3尺(約0.9m)で最も大きく、それ以外は幅4間(約7.2m)、深さ2尺(0.6m)程度であった。横堀の両側には3間(約5.4m)の小路が付いていた。縦堀には当初小路はなかったが、後に両側に小路が付けられた。それらの小路には、桜や柳が植えられ、堀の周りには料亭が軒を連ね、橋の上ではお祭りが行われるなどして賑わい、独特の情緒ある雰囲気を作り出していた。しかし信濃川の水位が低下し、さらに天然ガスの採取による地盤沈下もあって、堀の水が淀んで悪臭が漂うようになってしまい、市民から嫌われるようになり、高度成長期も手伝って昭和39年の新潟国体の開催を前に、堀はすべて埋め立てられた。現在ではその全てが道路となり、地名や西堀通、東堀通など通りの名に堀のなごりを見ることができる。
※この「運ぶための堀」の解説は、「堀」の解説の一部です。
「運ぶための堀」を含む「堀」の記事については、「堀」の概要を参照ください。
- 運ぶための堀のページへのリンク