透視能力の発現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 15:29 UTC 版)
22歳のとき、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}陸軍中佐・河地可謙[要出典]と結婚。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こした。それがもとでほどなく離婚することになり、実家に戻る。 実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられた際に優れた結果が出たため、修練を続けることとなった。その後、日露戦争時に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした[出典無効]。また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人の人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた。 評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、1909年(明治42年)から翌年の1910年(明治43年)にかけて京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた。
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