逆転の兆候
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「逆転の兆候」の解説
8月4日、英国首相チャーチルがエジプト首都カイロを訪問し、オーキンレックに対してただちに攻勢に出るよう命じたが、オーキンレックは9月中旬以前に攻勢に出ることは不可能だとして拒否したため、彼を中東方面軍司令官から解任し、ハロルド・アレグザンダーを後任に任じた。そして第8軍司令官にバーナード・モントゴメリーが着任した。 一方ロンメルは8月初めころから体調を崩し、8月21日にベルリンに離任許可を求めたが、却下され、指揮を執り続けることになった。 この頃英軍と独伊軍で補給状態の差が広がりはじめた。英空軍・海軍による独伊軍の補給輸送船の撃沈が再び急増していた。1942年9月には独伊軍の物資の20パーセント、10月には44%が沈められている。またこのとき独軍はトブルクやメルサ・マトルーを占領していたが、伊軍がこの二つの港に補給物資を届けるのは不可能であった(ほぼ確実に英海軍・空軍に沈められる)。結局そのはるか西のトリポリ港やベンガジ港に補給物資を輸送し、そこからトラックで運ぶしかなかったのだが、トリポリ港からエル・アラメインの前線は1800キロも離れていた。一方英軍はアレクサンドリア港から補給が可能であり、アレクサンドリアからエル・アラメインの前線までは100キロしか離れていなかった。 また情報収集能力にも差が広がっていた。独軍が暗号を解読することが可能だったカイロ駐在米国大使館付き武官が6月末に米国本土へ呼び戻されてしまったこと、またロンメルのアフリカ装甲軍の主力の情報部隊である第621無線傍受中隊が7月中旬の戦闘で事実上壊滅してしまったことで独軍の情報能力が大きく低下していた。またこれまでロンメルはベルリンやローマの命令を無視して行動することが多かったため、英軍は独軍の通信を傍受できてもロンメルの行動が読めない場合が多かったのだが、エル・アラメインで進撃が停止したいま、ロンメルの通信は彼の部隊の困窮をそのまま伝える物ばかりであり、その内情が筒抜けになっていた。ロンメルが病気であることも英国側は把握していた。
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