農漁業の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)
大師河原村では、明治の始めから海苔の養殖が始まり、大正初期には養殖漁家は450戸を数え、東京湾内でも有数の海苔の名産地となった。1893年(明治26年)には、大師河原村の篤農家当麻辰次郎が、多産で病害に強い品種の梨、長十郎梨を育成し、またたく間に地域に普及した。長十郎梨は多摩川梨との商標で出荷され、大師河原村は一大生産地となった。田島村では、篤農家の吉澤寅之助が1898年(明治29年)に「伝桃」という桃の新品種を育成し、全国に広まった。これらの梨、桃の栽培は、大正期に入ると次第に多摩川を北上し、稲田村まで広がった。 大師河原の梨、桃栽培は1917年10月の台風による高潮で痛めつけられた。多摩川下流域の梨栽培を決定的に衰退させたのは、1918年から始まった多摩川の堤防工事であった。この工事で、果樹園だった河川敷の土地はそっくり買い上げられた。 中原村、高津村、登戸村は古くからの街道筋の宿場町で、それぞれ市街地を形成していたが、周辺部は全般的に農村の面影が強かった。住吉村の市ノ坪は日本草花の栽培、宮前村の馬絹は花卉栽培、柿生村や岡上村では甘柿の禅寺丸がそれぞれ盛んに出荷された。柿生村と生田村では養蚕が農家の副業として行われた。
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