農業開拓と指導者の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 06:13 UTC 版)
それから3年後の1937年(昭和12年)7月、樺太豊原市(当時)市制施行を記念するため第二白菊号でふたたび女性操縦士の長距離飛行が計画され、西崎がパイロットに選ばれたのだが、津軽海峡で墜落してしまい貨物船に救助される。この年、女性を操縦から遠ざけようとする世情がますますつのってきたことから、飛び続けるために陸軍に志願するが、従軍して傷病兵を前線から後方へ移送する飛行などを任されることはなく、空を飛ぶ道を断たれてしまう。年が明けると猪岡武雄と結婚、開拓団に加わって満州に渡ると、現地で小学校に教員として勤めている。ところが猪岡と1941年(昭和16年)に死別、やがて西崎了と出会って1943年(昭和18年)に再婚。 終戦の翌年の1946年(昭和21年)に日本に引き揚げ、郷里の七本木開拓地に入植し、教職につくとおよそ8年間、生徒を教えながら農業に従事した。こうして戦後は教員を務めるかたわら、農業開拓指導に力を注ぎ、また開拓体験記をまとめており、その功績に対して1961年(昭和36年)に農林大臣賞を受賞する。1979年(昭和54年)に死去した。
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