転落と陰謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/16 01:06 UTC 版)
「マリー・ド・ロアン=モンバゾン」の記事における「転落と陰謀」の解説
シュヴルーズ公爵夫人となったマリーは引き続き王妃の友人であり腹心であった。しかし、1622年に王妃の妊娠中にルーヴル宮殿の廊下で馬鹿騒ぎを起こし、これが原因で王妃を流産させて宮廷から追放を受け、夫のシュヴルーズ公爵は彼女を宮廷に戻すために様々な工作をすることになった。 シュヴルーズ公爵夫人は宮廷での地位を取り戻すため、バッキンガム事件(1623年 - 1624年)などを引き起こしている。この事件は、マリーの愛人にしてリシュリューに対抗していたイングランドの有力貴族、ホランド伯ヘンリー・リッチ(en)に働きかけて行ったものであり、1625年にフランスを訪問したイングランドのバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズとの恋愛関係が疑われた王妃の立場を危険に晒すこととなった。 さらに、愛人であったシャレー伯アンリ・タレーラン=ペリゴール(fr)と共に、ルイ13世とその弟のオルレアン公ガストンの地位を入れ替える陰謀を企てた。その陰謀に連座して1626年10月19日、シャレー伯は斬首刑に処せられている。なお、シュヴルーズ公爵夫人はこの時期ロレーヌに逃亡していて、その地でロレーヌ公シャルル4世と情交関係を持ったとされているためか、ロレーヌ公は彼女がフランスに戻れるように便宜を図っている。 シュヴルーズ公爵夫人はフランスを巡る外国の陰謀の全てに付いて、その中心にいたとされる。ロレーヌ公国とスペインの交渉を担当したシャトーヌフ侯爵(fr)は共に陰謀を企てたが、結局彼女に代わって身を滅ぼした(1633年)。1637年、アンヌ・ドートリッシュがスペインと行っていた密書の存在が暴露されたとき、シュヴルーズ公爵夫人はスペインに国外退去するよう命じられ、イングランド、最終的にはフランドルに行き着いている。さらに、1641年にソワソン伯爵ルイ・ド・ブルボン(fr)の陰謀にも加担。ルイ13世が崩御した時、遺言により公爵夫人のフランス帰国を禁じる条項が作成されたものの、高等法院の決定により破棄された。 リシュリューの死後、フランスに帰国したシュヴルーズ公爵夫人は、1643年、ふたたび党派を率いて陰謀の中心となり宰相マザランと敵対した。しかしヴァンドーム公セザール・ド・ブルボンが追放されると、シュヴルーズ公爵夫人もまた逃亡を余儀なくされた。フロンドの乱のさい、彼女はマザランに接近したが(1649年-1650年)、1651年にフロンドの議会派および貴族派が同盟を結んだ際、貴族派に転向した。 1679年、シュヴルーズ公爵夫人は現在のセーヌ=サン=ドニ県にある修道院で死去した。
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