転落、復活、転落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:13 UTC 版)
「ユルゲン・メレマン」の記事における「転落、復活、転落」の解説
同じく1993年、入党わずか2年のキンケルがFDP党首に就任すると、党の古参としてキンケルを公然と批判した。しかし党内に同調者が少なく、翌1994年には州の党幹事会が全員辞任してメレマンに辞任を促し、やむを得ず党の州代表を辞任した。しかしそのキンケルも党勢後退の責めを負って翌年党首を退いたため、1996年に州代表に復帰。2000年の州議会選挙では、自身も出馬した彼の選挙戦指揮の下、議席ゼロ状態から得票率9.8%の好成績で議席を回復する成功を収め、高く評価された。この功により2001年5月にはFDP副党首に就任。 その頃イスラエルとパレスチナの紛争が激化して世間の関心が高くなっており、パレスチナへの同情が強いことを見てとったメレマンは、2002年の連邦議会選挙を前にして、イスラエルを非難しドイツ外交を軌道修正させるキャンペーンを張った。自爆テロを行うパレスチナ人への理解を表明するのみならず、「イスラエルはパレスチナ人に対する殲滅戦を行っている。シオニズムのロビイストが正当な議論を封じている」と発言して緑の党を追われたジャマル・カルスリを党に迎え入れる。メレマンはさらに、選挙戦中にイスラエル首相アリエル・シャロンらを批判するリーフレットを配布した。ホロコーストの過去を背負うドイツにとってきわめて微妙な問題での、彼のこうしたナイーブな姿勢は、反セム主義的であるとしてメディアや各党に激しく批判された。この選挙でメレマン自身は連邦議会への復帰を果たしたが、マスコミ受けを狙った派手な選挙活動の割にFDPの票は伸びず、責任を取って副党首を辞任した。
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