軍最高評議会からムルシー政権まで
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「タハリール広場」の記事における「軍最高評議会からムルシー政権まで」の解説
ムバーラクの辞任後、タハリール広場に集まった青年勢力と軍部の間で民主化のプロセスについて話し合いが行われた。しかし、双方には感情的なわだかまりが存在した。青年勢力は3月9日にタハリール広場において、政権幹部の起訴や新憲法の制定、イサーム・シャラフ首相に対してタハリール広場に出向くよう求めるデモを行った。これに対して軍部はタハリール広場に設置されたテントの強制撤去と青年勢力の逮捕を行った。 2011年3月末、軍部が全権を掌握した。これに対して青年勢力は4月8日に大規模デモの実施を呼び掛けた。これにはFacebookを通じて22人の青年将校が軍を離反してデモに加わった。タハリール広場に集まったデモ隊に対し、軍はおよそ300人の兵士を動員し、空砲を連射しながらデモ隊の強制排除を行った。 青年勢力と軍部の対立が深まる中、青年勢力は、4月6日運動や我らは皆ハーリド・サイードなどを中核とする革命青年連合を結成した。2011年7月、革命青年連合を中心として73の組織や勢力がタハリール広場で座り込みを行った。この座り込みは1か月にわたって行われ、軍政の早期終了などが求められた。 2011年11月には抗議のなかで命を落とした参加者らの家族がタハリール広場で座り込みを行った。警察はこれを実力で排除した。同日、金曜礼拝の後に数千人の抗議者らがタハリール広場に向かって行進を始め、警官隊と激しく衝突した。この抗議活動は4日間にわたって行われ、41人の参加者が命を落とした。軍はタハリール広場周辺の政府庁舎の保護を名目にして広場に繋がる道路にコンクリートの壁を築いて封鎖した。 2012年、大統領選挙が行われた。大統領選挙は決選投票にまでもつれこみ、僅差でムスリム同胞団出身のムルシーが大統領に選出された。大統領選挙に勝利したムルシーは6月29日にタハリール広場に集まった群衆の前で宣誓式典を行った。 政権についたムルシーはムスリム同胞団に対して批判的な言論を取り締まった。タハリール広場においても、「タハリール美化政策」という名目で、青年らが広場の中央部に設置していたテントを撤去し、芝生を植えて花壇を設置した。また、ムスリム同胞団を揶揄するグラフィティを白く塗りつぶした。しかし、グラフィティは塗りつぶされるたびに描かれ続け、「タハリール美化政策」は開始から1か月も経たないうちに失敗した。
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