軍事蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 04:59 UTC 版)
1913年7月12日、李烈鈞が江西省にて蜂起する。続いて江蘇省で黄興、上海で陳其美、広東省で陳炯明、安徽省で柏文蔚、四川省で熊克武、福建省で許崇智、湖南省で譚延闓が蜂起。李烈鈞が七省討袁聯軍司令となり、黄興は南京で独立を宣言した。 しかし袁世凱の北洋政府軍が南進すると、革命軍はこれを防げなかった。江西では8月18日に南昌が北洋政府軍に奪回され、李烈鈞は敗走した。黄興は7月28日に早くも南京を脱出している。上海では陳其美の率いる革命軍が兵器工場である江南製造局を攻撃したが攻略できず、揚子江岸の呉淞砲台に撤退。黄興や胡漢民がこれに合流するも北洋政府軍の援軍に包囲され、赤十字会の仲裁で8月13日に砲台から退去した。他の地域でも革命軍は敗退し、8月には孫文、黄興、胡漢民、李烈鈞らが日本に亡命。こうして第二革命は終わりを告げた。 8月5日に北支派遣隊の川崎享一大尉が、南軍(革命軍)の間諜の疑いで北軍(北洋政府軍)の兵士に捕らえられ、監禁された (兗州事件)。。8月8日に孫文は、日本に亡命した。8月11日には南軍が中支派遣隊西村彦馬少尉を拉致陵辱した漢口事件が発生した。 9月1日には北軍と南軍が南京で戦闘中、北軍の張勲が在留日本人3人を殺害し、日本人商店を略奪した (南京事件)。
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