軍事制度としてのミンガン
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「ミンガン」の記事における「軍事制度としてのミンガン」の解説
短期間で広大な地域を征服したモンゴル軍の軍制について周辺諸国は強い関心を抱いており、モンゴル帝国を訪れた旅行者の多くはモンゴル軍の軍制について言及している: 趙珙(南宋)『蒙韃備録』(1221) ……(モンゴル人は)兵を数十万起こす際にも、ほとんど文書を用いる事は無く、元帥より千戸(千人隊長)、百戸(百人隊長)、牌子頭(十人隊長)まで命令が伝わり実行される。 ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(フランシスコ会)『モンゴル人の歴史(英語版)』(1240) ……軍隊の編成については、チンギス・カンは次のように命じた。10人の上に1人が置かれ、これを我々は十の長と呼ぶ。10人の十の長の上に1人が置かれ、これは百の長と名付けられる。10人の百の長の上に1人が置かれ、これは千の長と名付けられる。10人の千の長の上に1人が置かれ、その数は暗闇を意味する。全軍に二人ないし三人(の指揮官)が置かれるが、実際には一人が最高指揮権を握る。 アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー(ホラーサーン)『世界征服者の歴史』(1260) ……すべての人々は十の隊に分けられ、10人のうち1人が他の9人の指揮官に任ぜられる。その指揮官10人のうち1人に「百の指揮官」の称号が与えられ、百の隊全体がその指揮下に置かれる。千人についても同様に行われ、万人についても同様で「トマンの指揮官」と呼ばれる指揮官を任命する。このような編制に従って、緊急の際、人員と物資が必要とされる場合には、トマンの指揮官に任命すれば、そこから千の指揮官に下命され、十の指揮官に到達する。 マルコ・ポーロ(ヴェネツィア共和国)『東方見聞録』(1300) ……その軍隊はつぎに述べるように編制されている。タルタルの君主が10万騎を率いて戦いに出かけるとしよう。彼は次のように諸事を手配する。10人ごと、100人ごと、1000人ごと、10000人ごとに、それぞれ1人の指揮官を置き、彼は(1万人の指揮官)10人と協議するだけでよいのである。1万人の指揮官も(1千人の指揮官)10人と協議するだけであり、1千人の指揮官も(百人の指揮官)10人と協議するだけであり、百人の指揮官も同様に(十人の指揮官)10人と協議するだけである。このように、各人はその上官に対して、責任を負うのである。10万人の領主が、ある地へ軍隊を派遣しようとするとき、彼は1万人の指揮官に1千人の動員を命ずる。そして、1万人の指揮官は1千人の指揮官に割り当て分の動員を命ずる。こうして、皆ただちになすべきことを了解し、割り当て分を動員する。というのは、彼等は世界のどの人々よりも、命令に忠実であるからだ。10万をtuc、1万をtomanといい、1000人ずつ、100人ずつ、10人ずつに編制されている。 これらの記述はモンゴル軍が10,100,1000,10000といった十進法区分によって編制されており、それぞれに十人隊長・百人隊長・千人隊長・万人隊長が任命されていたという点で一致している。しかし指揮官が複数の職掌を兼ねるかどうかについては記述が分かれ、ジュヴァイニーが万人隊長は同時に千人隊長・百人隊長・十人隊長を兼ねると記す一方、カルピニは各分隊長が全く別個の存在であると記している。 千人隊長でありつつ万人隊長も兼ねたムカリ、ボオルチュのようにモンゴル帝国初期に複数の職掌を兼ねた例が見られるのに対し、元代には逆にそのような事例が見られないことから、職掌を兼ねないのが本来チンギス・カンが示した原則であり、複数の職掌を兼ねるのは建国初期に見られた特殊な事例であると推測されている。
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