起用法と記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:41 UTC 版)
当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2・3回の登板や連投も珍しくなかった。稲尾が42勝を挙げた1961年には登板78試合のうち先発で30試合(うち完投が25試合)、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎなかった。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。 それに加え、三原脩監督が稲尾を重点的に起用する方針を採ったため、米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数は極端に多い。米田と土橋は共に63試合が最高で、60試合以上登板したのも共に2シーズンだけであり、梶本は68試合が最高だが60試合以上登板したのはその1シーズンのみである。これに対して稲尾は60試合以上登板したシーズンが6シーズン、そのうち70試合以上登板したシーズンが4シーズンある。特に入団初年度の1956年からは4年連続60試合登板を記録し、かつ61→68→72→75と年を経る毎に増えている。 稲尾自身は、連投も最後は習慣になっていたと述べている。連投になっても嫌だと思って投げたことは無く、ここを抑えたらチームは勝つという思いだけだったと言う。そして、3点リードしたら力を抜き、一点差になったら力を入れ、そうやって翌日の登板に備えて余力を残していたと述べている。実際に20連勝した1957年は、1点差での勝利が10試合だった。 稲尾の重点起用で西鉄が3年連続日本一という結果を出して以降、稲尾や杉浦忠(南海ホークス)、権藤博(中日ドラゴンズ)など酷使が原因による故障などで選手寿命を縮める投手が相次ぎ、これがきっかけで先発ローテーション制を整備する動きが見られるようになった。 同一シーズンでの20連勝を達成した投手は稲尾が達成してから、半世紀以上にわたって現れることがなかったが、楽天の田中将大が2013年9月6日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で開幕20連勝を達成して肩を並べ、続く9月13日の対オリックス戦(クリネックススタジアム宮城)に勝利したことで、56年ぶりに記録を更新した。
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