贖宥状に関する議論
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大司教ズビニェク・ザイーツが1411年に死去し、ボヘミアの宗教運動は新しい局面に入った。すなわち、贖宥状に関する議論の高まりである。1411年にアレクサンデル5世の後を継いだ対立教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を庇護するナポリ王ラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣した。十字軍の遠征費用を賄うため、教会は贖宥状の売買を始めた。プラハでも、贖宥状の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めた。 フスは、ウィクリフの例を出して贖宥状に反対し、有名な改革論を書いた。1412年に、フスが発表した論文(Quaestio magistri Johannis Hus de indulgentiis)によって論争が引き起こされた。その論文は、ウィクリフの著書(De ecclesia)の最終章とフスの論文(De absolutione a pena et culpa)からの引用だった。ウィクリフとフスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであると主張した。人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできないのである。この主張のため、フスは大学に留まることができなくなった。 民衆は、詐欺的な姦通者と聖職売買者の集まりのようなローマ教会よりも、フスに従うべきだと考えた。神学部の学者たちはフスの主張に反論したが、人々はヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテイン(Vok Voksa z Valdštejna)によって導かれ教皇の教書を焼き捨てた。説教の途中で説教者をはっきりと否定し贖宥状を欺瞞と言った下層階級出身の3人の人が斬首された。かれらはフス派の最初の殉教者だった。 神学部はフスに司祭の試験のために、演説をし教義を提示することを要求したが、彼は拒否した。学部は55の論文を新たに異端と宣告し、フスの幾つかの論文も異端に加えた。ヴァーツラフ4世はこれらの論文を教えることを禁止したが、フスと大学のどちらが正しいとしたわけではなく、論文の異端性を最初に証明することを要求した。
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