贖宥状のキャッシュフロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:27 UTC 版)
「レオ10世による贖宥状」の記事における「贖宥状のキャッシュフロー」の解説
フッガーと会計士(1517年頃) 教皇もマインツ大司教もフッガー家に対する借金を返済するあてがなかった。フッガー家はこの両者を連結し、贖宥状販売を通じて元金と利息を回収する仕組みを考案した。このアイデアがもたらされたのは1515年3月だったとされている。 実際に贖宥状をドイツ各地に売り歩くのはドミニコ修道会の役目である。これにはフッガー家の帳簿係が同行し、売上の記録をつける。売上の一部は、手数料としてドミニコ修道会の利益になる。残りはアルブレヒトの収入となる。この収入のうち、半分はアルブレヒトの取り分となり、もう半分はマインツ大司教の贖宥状販売を許可した教皇の取り分となる。ただし、アルブレヒトの取り分は、大司教叙任時の上納金のための借金の返済のため、そのままフッガー家へ渡る。教皇レオ10世の取り分は、これもまたフッガー家への借金返済のため、結局フッガー家へ渡る。これらの金の流れは帳簿上で行われるのであって、実際に金で一杯になった代金箱はフッガー家の者が持っていくのである。 こうして、名目は「聖ペテロ大聖堂の建築資金」として発行された贖宥状の売上は最終的にフッガー家の懐におさまった。ただしこの仕組は秘密であり、あとになってフッガー家の帳簿からわかったのであって、当時の人々でこれを知っているのは関係者に限られ、ザクセン選帝侯やルターも知らなかったことである。
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