貿易と海外交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 23:51 UTC 版)
嶺南の海岸地帯を手に入れた漢は、東南アジアの文明と深く接触できるようになった。また逆に、東南アジア諸国にも中国の文化的・技術的影響が広まった。スマトラ島やボルネオ島、ジャワ島などでは、1世紀に漢で製造された陶器が発掘されている。またカンボジアでは、中国のものを原型としたような青銅斧が発掘されている。 漢やその後継王朝は、南アジアや東南アジアの諸国と経済・外交両面で関係を持った。漢の船はインドまで旅して、中国の交易権を遥かインド洋にまで広げた。またこうした交易路を経由して、漢はインドのマウリヤ朝やサータヴァーハナ朝、シュンガ朝、ペルシアのパルティア、さらには地中海の共和制ローマとも接触した。120年には、ビルマから中国への贈り物としてローマ人の踊り子や芸人が送られている。紀元2年には、『漢書』によれば日南郡の南方にある黄支国がサイを献上してきた。89年および105年にはインドから使者が到来した。またシリア出身のローマの商人が、166年に南越国を、226年に南京を、284年に洛陽を訪れている。華南の墳墓では、海外の物産が数多く発掘されている。そして中国で生産されていた絹は、西方諸国が熱望するところとなり、古代ヨーロッパと近東、中国を結ぶ長大な交易路シルクロードが形成されていった 。
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