議会法をめぐる紛糾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 21:18 UTC 版)
アスキス首相は庶民院を解散、1910年1月の総選挙(英語版)はハング・パーラメントとなったものの、キャスティング・ボートを握ったアイルランド議会党(英語版)が「人民予算」を支持したため、自由党政権は「人民予算」の可決を目指した。その中でアスキス首相は3月29日に貴族院拒否権制限を盛り込んだ議会法案を庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた。 議会法案の貴族院送付をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年5月6日に国王エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党幹部の会合「憲法会議」の場が設けられたが、妥結には至らなかった。この間にロイド・ジョージが提唱した自由党・保守党連立政権構想も空振りに終わった。 これを受けてアスキスは国王ジョージ5世から「総選挙を行い、政府がこれに勝利した場合には国王大権で新貴族創設を行ってもよい」という秘密裏の確約を得て、1910年11月26日に庶民院を解散した。自由党は「貴族が統治するのか、平民が統治するのか」をスローガンにして選挙戦に臨んだが、国民は貴族院権限制限問題にはほぼ無関心であり、12月の総選挙(英語版)の結果は前回とほぼ変わらず、ハング・パーラメントのままだった。だが、友党アイルランド議会党の議席と足すと過半数を越えていたので、アスキスは議会法案の有権者のコンセンサスを得たと力説し、1911年2月にふたたび議会法案を庶民院に提出して5月に可決させた。しかし貴族院は否決の構えを見せていた。
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