議会外大衆組織の育成
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「ランドルフ・チャーチル (1849-1895)」の記事における「議会外大衆組織の育成」の解説
ランドルフがパフォーマンスと並行して力を入れたのが保守党の議会外組織の活動だった。とりわけ重要なのは保守党と有権者を結び付ける役割を果たしていた保守党協会全国同盟(英語版)(NUCA)であった。ランドルフ卿は1883年10月にもNUCAの権限を強化すべきことを提案して衆目を集めた。 またディズレーリの死後、ランドルフは「ディズレーリのトーリー・デモクラシーの後継者」を自称するようになった。そこには「トーリー・デモクラシーこそ志半ばで倒れた前党首が示した道であり、その継承者である自分が党を指導するべき」という意味が込められていた。ランドルフはディズレーリの魂を継承する組織を作るべく奔走し、1883年11月17日に保守党の社交界カールトンクラブ(英語版)の会合で「プリムローズ・リーグ」の結成を発表した。リーグの目的はディズレーリが目指した物、つまり「宗教、国制、大英帝国の護持」と定められた。NUCAは自由党の同種の組織「自由党全国連盟(英語版)」に比べて大衆を運動員として動員する能力が低かったので、これを憂慮したランドルフはプリムローズ・リーグをNUCAより広い階層の大衆の意見をくみ上げる大衆運動組織にしようと考えたのであった。にも関わらずランドルフははじめこの組織をエリートだけが加入できる準秘密結社にしたがっていた。これについてはウォルフが「無神論者と大英帝国の敵を除く全ての階級・信条の者に開かれた組織にすべきだ」と説得して止めた。その結果、リーグは「宗教、国制、大英帝国の護持のために私の持てる力の全てを捧げることを女王陛下への忠誠心にかけて誓う」と宣誓した者は誰でも受け入れられることになった。リーグは労働者層の心をとらえ、この時代最大の大衆組織となった。リーグがこれだけ労働者層に広く受け入れられたのは「宗教、国制、大英帝国の護持」というスローガンが単純で包括的だったからと見られている(細かい政策には踏み込まなかった)。 一方NUCAでも影響力を拡大させ、1884年2月にはNUCA評議会議長に就任した。以降ランドルフは「NUCAで示される一般党員の世論が党執行部の決定に反映されるべきである」と訴えるようになった。しかし一般党員が議会保守党を拘束するなど、ソールズベリー侯爵以下保守党執行部には到底認められるものではなかった。結局ランドルフは1884年7月にソールズベリー侯爵と協定を結んだ。これによりランドルフはNUCA議長から退任することになったが、代わりに次期組閣時にはしかるべきポストが提供され、またプリムローズ・リーグを執行部が公認することとなった。
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