講談における赤穂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 14:17 UTC 版)
講談(講釈)の世界においても、事件当初から「赤穂義士伝」が好んで読まれた。赤穂義士伝は赤穂事件全体の流れを述べる「赤穂義士本伝」、個々の義士の逸話を述べる「赤穂義士銘々伝」、義士以外の関連人物を対象とした「赤穂義士外伝」に分かれるが、この区分ができたのは近世中期である。 大正13年発行の『講談落語今昔譚』によれば、19世紀前半に田辺南窓(後に柴田南窓を名乗る)という博覧強記な講釈師が義士伝を得意とし、大正13年当時の義士銘々伝はおおむね南窓のものを稿本にしているという。 その後講談は幕末に大いに流行し、明治初期に黄金期を迎える。忠臣蔵がらみでは三代目一龍斎貞山は大石内蔵助を日本一の忠臣として尊敬し、赤穂城明け渡しでは聴衆を泣かせたという。 明治初期の講談の黄金期は講談の内容を書き記した「講談筆記本」が登場した事の影響が大きい。忠臣蔵がらみでは桃川如燕の『二十三品義士の遺物』や、『文芸倶楽部』に発表された『講談忠臣蔵』(1899年)や『義士講談 雪の梅』(1900年)などがある。 1913年には文部省・宮内省の呼びかけで発足した組織「通俗教育普及会」の要請により、『通俗教育叢書 赤穂誠忠録』が書かれその中で講釈師の桃川如燕・若燕に義士伝を語らせている。 しかし講談はその後浪曲や大衆小説の登場により衰微していく。人間国宝の講談師・落語家の神田松鯉は著書で「師匠の神田山陽は赤穂義士伝は流行らない」と、外伝を含めると五十段を超す連続ものの演目指導を渋られたと回想している(本記事の講談の項目ではそのごく一部を記す)。
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