諸藩の対応
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水口藩(藩主加藤明邦 2万5千石)の井口多兵衛は大津代官所において、御慈悲の御見分であれば良いが『御無慈悲の御見分と相成候ては、騒ぎ立て申すまじき御請け合いはいたされず』と語り、無慈悲な見分であったならば一揆等が起こっても責任は持てないとした。また、近江の多くの小領主は財政難の時に隠れ持っていた田畑が見分により取り上げられることは避けたいと当然に思っていた。また、領主である大名・旗本は領地の豪商や大庄屋から借り入れを行っており、実際三上村に陣屋を置く三上藩(藩主遠藤胤統 1万石)では大庄屋大谷家から支援を受けていた ことから、庄屋層の疲弊は自分達のためにも避けたいものであった。 膳所藩の対応は明らかではないが、先の大久保今助による検地に際して、見分中止と共に膳所藩領先の新田を幕府領とされたことに対して、天保5年(1834年)に享保・安永の幕令より『膳所藩領に囲まれた新田は幕府領ではなく膳所藩領』となるはずとの考えから返還を申し出たが、琵琶湖は幕府の物と言い出し新田は膳所藩領だけに囲まれている訳ではないと主張され、2年後に漸く返還された苦い経験を持っていた。彦根藩が天保3年(1832年)に同様の趣旨で見分中止を申し入れあっさりと受け入れられた だけに、幕府への不信感は強いものがあると想像される。
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諸藩の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/14 03:58 UTC 版)
武家諸法度では、「幕府の出した法令は各大名家でも遵守すべし」とされているが、必ずしもそれは守られておらず、山形藩では藩主の堀田正虎は大庄屋の佐藤里兵衛を諮問した上で「混乱をまねくから流地禁止令は採用すべきでない」という意見を容れて領内には適用しないこととしている。
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諸藩の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 09:46 UTC 版)
この法制に各大名はそれぞれに対応し、分家統制の目的で積極的に動いた藩や、領地替えで移転した先に城が無かったため新築せねばならず困窮した藩、一部の城を破却せず密かに維持した藩など様々である。
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