諫言と致命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 14:13 UTC 版)
「フィリップ2世 (モスクワ府主教)」の記事における「諫言と致命」の解説
しかし雷帝に直属する集団であるオプリーチニキにより罪無き人々の血が流されていく粛清と虐殺の現実を目の当たりにしたフィリップは、1568年から新たに巻き起こされていた殺戮の嵐を前に、雷帝への命がけの諫言を決意する。 1568年3月22日、クレムリンの生神女就寝大聖堂を訪れた雷帝は府主教に祝福を求めたが、府主教フィリップはこれを拒否。さらに大聖堂に参祷していた貴族・大商人・神品達の前で公然と雷帝を非難した。その時の台詞も記録する年代記には、その後、雷帝とフィリップの間で、激しい口論があったことが記されている。雷帝は府主教からの祝福を得る事が出来ないままに大聖堂を退出した。 翌日、雷帝の命令により、オプリーチニキは府主教庁に踏み込み、府主教に仕える修道士達を捕縛した。府主教に謀反の意があるとの証言を引き出すために拷問が加えられたが、修道士達は証言を拒否。彼らは全員殺された。 雷帝はフィリップの査問を命じ、ソロヴェツキー修道院では雷帝により組織された査問委員会によりフィリップの過去をめぐる査問が行われた。証拠は出て来なかったが、脅迫による恐怖と自己の野心により、修道院長がフィリップの「恥ずべき所業」についての「証言」を行った。聖職者による法廷でも同じ証言が行われたが、フィリップの擁護にまわったのは前任者であった大主教ゲルマンだけだったと伝えられる。これにより有罪が確定した。 雷帝はフィリップに対し、天軍首ミハイル祭(ユリウス暦の11月8日)の生神女就寝大聖堂での聖体礼儀の司祷を命じた。聖体礼儀が始まるとオプリーチニキが大聖堂に乱入し、フィリップの罪状を読み上げ、府主教フィリップから宝冠、権杖、パナギア、祭服をはぎとった。フィリップは用意されていたソリに押し込められて護送され、クレムリン城外の神現修道院に幽閉された。これは雷帝が以前に同じ大聖堂で受けた屈辱への報復であった。翌日にはフィリップを擁護した大主教ゲルマンもオプリーチニキに殺された。 終身刑を言い渡されたフィリップは翌1569年12月23日に、死刑執行人マリュータ・スクラートフ(Малюта Скуратов)に扼殺され致命した。フィリップは致命する3日前には死を予期していたかのように領聖していた。 「幽閉されていたフィリップは、食事が一切与えられず枷で固定されていたのに、数日後、枷は外され府主教は獄中で神を讃美していた。」「雷帝の命令で飢えた熊がフィリップの部屋に放たれたが、フィリップは起立して祈り、熊はその足もとにおとなしく身を横たえていた。」といった、獄中での奇蹟が伝えられている。
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