調査会における議論
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1946年3月に委員と臨時委員の任命が終わったことにより、調査会の実質的な活動が始まった。調査会内では総会、部会長会議、部会などの場で議論が行われ、調査の目的、方針、実施方法などについて討議がなされた。陸軍軍人の飯村穣臨時委員や宮崎周一臨時委員からは、敗因の解明には公正な判断による事実の認定を要するので、当事者の元軍人の会議への参加且つ、結果論に堕することのない厳正な審議を求めた。調査会に参加した他の元軍人からも、同様の危惧を持たれている。この懸念は払拭されることは無く、第二部会は廃止まで1度も部会を開催しなかった。また、渡辺幾治郎委員は開戦の責任者追及に反対し、この戦争が不可避なものであったことを調査する必要性を強く論じた。 一方、渡辺銕蔵委員からは、GHQの指定する戦争責任者は必ずしも正当では無く、真の戦争責任者が追及から逃れている状況を正すべく調査を行うべきであり、戦争責任及び不利な状況下での戦争持続責任(国家困窮責任)も追及すべきであると論じた。また、松村義一委員からは帝国議会の時と同様に、日本内での戦争責任者の追及の必要性が論じられた。 他方では、馬場恒吾委員や中村孝也委員は、回避可能な戦争であったとする結論が出るという予見があり、馬場からは戦争放棄が加わった憲法草案を裏付けるためには、日本が開戦したこと、すなわち戦争全体が不正であるとする調査は有効であると論じられた。調査の目的を再び「失敗」を繰り返させないためとした幣原総裁は、敗戦では無く開戦自体を「失敗」と考えており、敗戦の原因、実相を調査する目的は、次期戦争の勝利では無く、再び戦争を起こさせないために有益であると説明した。また、青木事務局長官は、戦争遂行中の言論圧迫を例に挙げ、平和国家建設の障害を調査して発表するのが良いと説明した。
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