誕生・幼少年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 04:31 UTC 版)
佐吉郎は、ケイが妊娠すると道場で稽古の見学を命じ、胎内の佐三郎に竹刀の音を聞かせた。夜には歴史上の英雄・豪傑の伝記を読み聞かせた。佐三郎が産まれた場所は秩父神社の道場内であった。佐吉郎は男児の誕生を喜び、庭にふいごを設けて有名な刀工を呼び、大小の刀を誕生祝いとした。佐三郎が歩くようになると、さっそく桐の木刀を与え、3歳から中西派一刀流の形稽古をつけた。褒美に菓子がもらえることを覚えた佐三郎は、自ら進んで稽古を求めるようになり、物心付く前に中西派一刀流の組太刀56本を覚えた。 5歳のとき、藩主・松平忠誠の御前で佐吉郎を相手に中西派一刀流組太刀56本を演武した。藩主は佐三郎を激賞し、「奇童」の二字を書き添えて脇差と銀一封を与えた。佐吉郎は感極まって泣いていたという。 明治維新後も高野家では稽古が続けられ、佐吉郎は佐三郎に、道場の床に大豆を撒き草履を履かせての稽古や、膝まで水深のある川での稽古、布で目隠しをしての闇試合、早暁の太陽を飲む神法など、さまざまな特訓を課した。秩父地方の剣術大会で佐三郎の名は轟き、「秩父の小天狗」の異名をとった。 明治12年(1879年)、埼玉県児玉郡賀美村の陽雲寺境内で「上武合体剣術大会」が開かれ、佐三郎は佐吉郎の代理で出場した。対戦相手は元安中藩撃剣取締役助教授・岡田定五郎(30歳)であった。佐三郎が竹刀を片手上段に構えると岡田は怒り、何度も強烈な突きを放った。喉を破られ袴まで血に染めた佐三郎は、岡田の目を潰そうと竹刀で顔面を突いたが、面金に当たるだけで届かず、ついに昏倒してしまった。
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