誕生・就学とは? わかりやすく解説

誕生・就学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:44 UTC 版)

横井小楠」の記事における「誕生・就学」の解説

文化6年1809年8月13日肥後国現在の熊本県熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる。 文化13年1816年)、8歳藩校・時習館入校天保4年1833年)に居寮生となったのち、天保7年1836年)の講堂世話役経て天保8年1837年)に時習館寮長塾長)となる。下津久馬(休也)とともに居寮新制度建議採用されるものの実施過程において頓挫する。このとき、家老長岡是容後ろ盾を得る。天保10年1839年)、藩命により江戸遊学林檉宇門下生となり、佐藤一誠松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣川路聖謨水戸藩士藤田東湖など、全国有為の士と親交を結ぶ。 しかし、同年12月25日藤田東湖開いた忘年会参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年1840年2月9日、藩の江戸留守居役から帰国命令下され帰国後には70日間逼塞処された。この間、小朱子学研究没頭する。翌天保12年1841年)頃より、長岡是容下津久馬、元田永孚昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老松井章之を頭目とする「学校党」と対立することとなるが、藩政混乱避けるため長岡家老職辞職し研究会取り止める。また『時務策』を起草する

※この「誕生・就学」の解説は、「横井小楠」の解説の一部です。
「誕生・就学」を含む「横井小楠」の記事については、「横井小楠」の概要を参照ください。

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