設置から流失の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 09:18 UTC 版)
「円明園十二生肖獣首銅像」の記事における「設置から流失の経緯」の解説
水面積が全園の2分の1以上を占める「水景園」である円明園に、12体の獣首人身の銅像は設置された。銅像はジュゼッペ・カスティリオーネがデザインし、ミシェル・ブノワ(en:Michel Benoist)が設計監修をした。実際の製作は清朝の宮廷匠師による。十二獣首人身の水力時計は、海晏堂にある様々な水仕掛けの中で、最も苦心した作品である。 満州で都市計画に携わった官僚・佐藤昌の著書によると、やがて咸豊帝の母親太后(孝全成皇后)は、銅像が「怪異」である、と嫌がって、銅像を倉庫に片付けた。孝全成皇后没後の1860年、アロー戦争の際に、フランス(第二帝政)軍が円明園の略奪に注力し、イギリス(グレートブリテンおよびアイルランド連合王国)軍が清朝による捕虜殺害への報復として円明園を焼き払い、その混乱の中、獣首人身銅像は流失、離散したとされる。しかしこの時イギリス・フランス軍にこれらの像が略奪されていないことを証明する、後の中国国内で撮影された写真が存在するという主張がある。 中国文学者・中野美代子による月刊誌『図書』寄稿文書によれば、円明園の略奪後(1860年)の情景を報じた新聞の挿絵にこれらの像が残っている。その後、西太后が円明園の復興をめざしたものの1874年ごろ中止されたが、この頃に十二支像は移設されたと考えられる。1930年前後に円明園を調査したキャロル・ブラウン・マローンは「北京の冬の離宮」にある12のブロンズ像の写真を撮影している。したがって像の頭部はその後に国内の人物によって切断され持ち出され、骨董市などで売りさばかれたものと推定される。実際、国共内戦、文化大革命などの動乱により円明園はさらに略奪され、荒廃が進んでいる。
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