計画の消滅とその後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:50 UTC 版)
「京阪梅田線」の記事における「計画の消滅とその後の動向」の解説
1930年(昭和5年)には蒲生信号所 - 守口(現・守口市)間の複々線化工事に関連して、蒲生駅の国鉄京橋駅東側への移転が決定したことにより、野江駅からの延伸申請を取り下げ、翌年には天神橋駅からの延伸免許を高垣町までに変更して再申請するが、1932年(昭和7年)10月には、蒲生駅で城東線に乗り換えることで京阪本線から大阪駅(梅田)へのアクセスが可能となり、淀屋橋地下延長線計画の進展もあって、1942年(昭和17年)には関連免許が失効した。 なお、京阪は1943年(昭和18年)に陸上交通事業調整法により阪神急行電鉄と合併して京阪神急行電鉄となり、戦後の1949年(昭和24年)に再分離するが、この時旧新京阪鉄道の路線は京阪神急行の京都本線となった。それに先立つ1944年(昭和19年)からは、十三駅より宝塚本線に乗り入れることで、京都本線(1949年〈昭和24年〉までは新京阪線)の梅田駅乗り入れが開始されている。阪急となってから、既に取得していた用地を活用すべく梅田駅 - 天満駅 - 天神橋駅間に新線を建設する計画もあったが、これは大阪市による高速電気軌道6号線(現在の大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 堺筋線)建設計画と、これに伴う千里線の同線乗り入れ計画具体化で中止となった。 京阪本線の淀屋橋地下延長線は1963年(昭和38年)に完成、地下鉄各線と接続し、京阪本線から梅田へのアクセスはさらに強化された。
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