計画の波紋
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2004年2月シャロン首相は地元紙ハアレツの取材に対し、突如として、ガザ地区の全21箇所・ヨルダン川西岸入植地の4か所の解体を打ち出し、全世界を驚愕させた。なぜならシャロンは2001年に首相に就任して以来、パレスチナに対し一貫して強硬姿勢を崩していなかったからである。 かねてよりパレスチナに融和的だった労働党は、即座にこの計画を支持。パレスチナ人による一向に終わりを見せないインティファーダや自爆テロ攻撃によって厭戦気分が高まっていた国内世論も総じてシャロンの計画に好意的だった。また、シャロンとは首相就任以前から親密なアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領も歓迎の意を示し、2004年4月14日に行われた首脳会談でもイスラエルへの全面的な支持が確認された。 国内外からの支持を得たシャロンだったが、自身が党首をつとめる右派政党リクードの反応はまるで違っていた。旧約聖書に基づく領土拡張が党是であるリクードにとって、シャロンの行動は裏切り以外の何物でもなかった。シャロンは、撤退計画を党員投票にかけ、党内の信任を得た上で国会での採決に持ち込む構えだったが、その目論見は見事に打ち砕かれた。シャロンの政敵であるベンヤミン・ネタニヤフ元首相は多数派工作を公然と拒否、最側近だったリモール・リブナット教育相もシャロンからの離反を始め、強硬派のウジ・ランダウに至っては入植者と一体になって反対運動を展開し公然と叛意を示す始末だった。5月2日に実施された党員投票日に、ガザ地区のグッシュ・カティーフで、入植者の母子5人がパレスチナ人の男に惨殺される事件が勃発した。これにより否決への流れは決定的になり、実に60%以上が反対し、シャロンは面子をつぶされた。
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