言語改革活動
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「サメド・アガ・アガマリ・オグルィ」の記事における「言語改革活動」の解説
アガマリ・オグルィは、その後半生をテュルク諸語のラテン文字化に捧げた。1922年にアガマリ・オグルィは「新テュルク・アルファベット(英語版)委員会」を創設し、その議長として1924年にラテン文字をアゼルバイジャンで唯一の公用文字とすることに成功した。同時期にはウラジーミル・レーニンに面会し、「ラテン文字化は東方の偉大な革命である」とのお墨付きも得、1927年には連邦政府の正式な承認の下「全ロシア中央執行委員会(ロシア語版)民族会議附属新テュルク・アルファベット導入全連邦中央委員会」の議長に就任した。そして、翌1928年中頃までには全てのテュルク系諸共和国がラテン文字化を法制化するに至った。 アガマリ・オグルィは新アルファベット中央委議長に在任中の1930年10月6日にモスクワで死去した。同地に葬られたが、その後バクーの名誉の路地(英語版)に改葬された。アゼルバイジャンにはアガマルオグル(アゼルバイジャン語版)やサメダバード(アゼルバイジャン語版)という名の村が存在し、またアガマリ・オグルィの名は国立農業大学(英語版)やナヒチェヴァン市 (az)、アブシェロン県、イミシュリ県、アグスタファ県(英語版)などの多くの通りに付けられた。 しかし、アガマリ・オグルィ死後の1930年代半ばからコレニザーツィヤ(英語版)(民族文化振興政策)は停滞し、ラテン文字化の流れはキリル文字化(ロシア化)へと転回していった。そして1937年12月に新アルファベット中央委は廃止され、1940年までにテュルク諸語を含めたソ連のほぼ全ての言語はキリル文字表記に転換した。
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