解放後のパレード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 02:13 UTC 版)
ド・ゴールは降伏が成立した後の午後4時半頃に陸軍省に移り、オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)で臨時政府の帰還と解放を伝える演説を行った後に、翌日の凱旋パレードを計画した。さらに英米軍に対して将兵の参加要請を出した上に、パレード終了後は第2機甲師団を連合軍の編成から外すと通告してきた。第5軍団のジロー少将は激怒し、第12軍集団司令部からパレード参加の禁止と前線への前進命令を受け取ってルクレール少将に下命した。しかしルクレールは「政府の元首」であるド・ゴールの方針に従うと伝え、ド・ゴールもパレード実施を強行した。 8月26日にはパリのシャンゼリゼ通りで第2機甲師団を中心とするパレードが行われた。しかし、市内にはなおドイツ軍の狙撃兵が残っており、時折、銃弾が飛来して市民が慌てて地面に伏せるような事態も発生した。 29日には、アメリカ陸軍第28歩兵師団(英語版)によるパレードが行われた。この時には警察機能が回復するとともに市民の興奮、混乱も収束し、パリ市内は既に安全な状態となっていた。自由フランス軍とアメリカ軍の車両がパリの道路を進むと、喜びに満ちた群集が彼らを歓迎した。以後、毎年8月25日にはパリ解放を記念する式典が開かれる。2004年の60周年記念式典では、オテル・ド・ヴィルの外で音楽に合わせて道で踊る人々の間を当時のフランス軍とアメリカ軍を表す2種類の装甲車両による軍事パレードが行なわれた。
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