解体に向かう二重帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:41 UTC 版)
「オーストリア革命」の記事における「解体に向かう二重帝国」の解説
このような状況を背景に、それまで帝国政府の戦争遂行政策に協力していた社会民主党内部でも、「城内平和」離脱と停戦を掲げる左翼少数派が次第に勢力を拡大し、同年10月3日、社会民主党議員団は従来のオーストリア帝国維持の方針を放棄し、チェコ人・スロバキア人・南スラヴ人など国内各民族の民族自決を承認するとともにドイツ系オーストリアにも民族国家を形成する権利を主張する決議を採択した(同日、奇しくもドイツでは社会民主党も参加したマックス・フォン・バーデン政権によりウィルソン米大統領に対する休戦申し入れがなされた)。これに対し皇帝カール1世は連邦制移行の宣言で帝国の維持を図ろうとしたが、ハンガリーがこれを無視して二重帝国を離脱したため、帝国の解体が始まった。10月21日にはドイツ系議員がウィーンでドイツ系オーストリアの臨時国会を開催、社会民主党系とキリスト教社会党(ブルジョワ自由主義派)系を中心とする20名の「国家評議会」を選出(10月体制)、未だ存続していた帝国政府に対抗して事実上のドイツ系オーストリアの政府に発展していった。また労働団体と経営者団体の協議に基づく労資協調組織「労使同数工業委員会」が発足、10月体制との緊密な連携のもと独自の社会政策を実行するようになった。この間チェコ・ポーランド・南スラヴ(クロアティアやスロベニア)では独立国家の形成が宣言された。
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