親独伊派の策動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 10:23 UTC 版)
日本国内では、1939年の平沼内閣の五相会議以来、日・独・伊の枢軸を強化しようとする板垣陸相ら枢軸派・親独伊派と重臣・宮中・海軍・三菱に代表される親英派が対立し、陸軍は親英派を現状維持派だと批判して、英米の思想文化・自由主義を追放し、排英運動・国内革新運動を進めて戦時体制を強化することを主張していた。 1940年6月のフランスの陥落直後に、日本政府はドイツに、ドイツとイタリアとの政治的関係強化の意向を伝え、ドイツはこれに対して、日本に英国との協調関係の放棄を提案していた。ドイツの狙いは、日本に極東で英米との戦争を起こさせ、米国が欧州で英国を支援できないようにすることにあると見られていた。 英国人10余人の一斉逮捕は、陸軍など日本国内の反英派・過激派勢力が、ドイツの対英政策を受け入れ、対独戦による英国の劣勢に乗じて国内の親英派を攻撃し、英国を挑発するために引き起こした事件とみられていた。 リンガー兄弟が逮捕された下関・長崎では、憲兵隊が瓜生商会の日本人従業員全員を尋問のために拘留し、調査のために事務記録の多くを没収、また日本人従業員全員が同商会との関係を絶つように忠告された。
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