西鶴の再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 14:33 UTC 版)
同時代では、有名人であり、人気のある作者であったが、江戸末期には西鶴は忘れられていた。 明治以後の西鶴再評価は淡島寒月に始まる。彼の「明治十年前後」によると、寒月は山東京伝の考証本『骨董集』を読み西鶴に興味をいだき、古本を漁って幸田露伴・尾崎紅葉などに紹介したという。当時山田美妙や二葉亭四迷によって推し進められていた言文一致体の文章への違和感もあり、紅露の二人や樋口一葉などは西鶴調の雅俗折衷文体の小説を発表した。 明治30年代はロマン主義の隆盛に伴い埋没するが、自然主義文学が起こるなかで、みたび注目を浴びる。例えば島村抱月は「西鶴の思想は多くの点に於いて却つて近代欧州の文芸に見えたる思想と接邇する。個人性の寂寞、感情の不満、快楽性の悲哀、これ併しながらやみがたき人生の真相である」と、また田山花袋は「馬琴の稗史滅び、近松の人情物すたれ、一九、三馬の滑稽物は顧る者の無い今の時に当つて、西鶴の作品に自然派の面影を発見するのは、意味の深いことではないであらうか」と言ったように、紅露一葉の時代は主に西鶴の文体が注目されていたが、この時代になると自然主義に寄せつつその描写や思想的側面に注目が集まるようになった。
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