装甲部隊による攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:11 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「装甲部隊による攻撃」の解説
傍受によって得られた情報に基づき、アメリカ第3軍団のG-2情報部は、ドイツ軍が鉄橋の橋頭堡を一掃するために大規模な部隊を編成していると考えていたが:253、連合国側には知られていなかったが、ドイツ軍がアメリカ軍を押し返すために招集した部隊は「机上の存在」でしかなかった。橋頭堡を攻撃するドイツ軍の大規模な部隊はどれもまとまっておらず、その多くはバルジの戦いで消耗しており、深刻な戦力不足にあった:68。 3月10日から13日にかけて、ドイツ軍の反攻部隊のほとんどは11個の師団の残余であった。援軍に第3装甲師団と第340国民擲弾兵師団からの約200名が含まれていたが、彼らはほとんど訓練を受けておらず、ライン川の上下にある軍管区部隊から抽出した、ほとんどが戦闘経験の浅い補充兵であった:70。 ドイツ軍が直面した装甲部隊の前線への移動の困難さを示すものとして、512重戦車駆逐大隊(Schwere Panzerjäger-Abteilung 512.)の一例がある。 オットー・カリウス率いる、第2中隊の5両のヤークトティーガーは、前線への移動に通信障害や、敵機による脅威のために10日かかったとされ、第1中隊は作戦中に4両のヤークトティーガーを失ったが、そのうち3両は車両の故障によるものであった。ようやくヘルボルン(de)近郊でアメリカ軍と対峙すると、ヤークトティーガーは米軍戦車を遠距離から攻撃し始め、約30両の米軍戦車を撃破したが、戦略的な勝利は得られなかった。 バイエルラインは、手持ちの戦力で効果的な反撃を行うことができなかった。装甲教導師団は3つの補充部隊で構成されていたが、その兵力は紙上では現実よりもはるかに多かった。例えば、第653重戦果駆逐大隊は、2両のヤークトパンター駆逐戦車を配備されたが、戦場に投入されることはめったになかった:62。第9、第11装甲師団と共に連合軍を阻止する任務を担っていたが、モーデルは装甲教導師団が到着しなかった3月10日に第11装甲師団を抑えた。3月11日、ようやく第9、第11装甲師団がレマーゲンから6.4km下流のバート・ホンネフでアメリカ軍の第311歩兵連隊を攻撃したが、効果はなく、減りつつあるガソリンを消費するだけで戦果は出なかった。 3月13日、バイエルラインはブルッフハウゼン(de)付近でアメリカ軍を攻撃する計画を立て、約1,500人の部隊を含む3つの大隊と、約3,000人の部隊を擁する、アメリカ軍の予備5個大隊と対峙した。
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