装甲軍団グロースドイッチュラント
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「グロースドイッチュラント師団」の記事における「装甲軍団グロースドイッチュラント」の解説
1944年12月14日、グロースドイッチュラント師団と、その戦歴の中でグロースドイッチュラントと深い関係を持つブランデンブルク師団の2個師団を指揮する為、装甲軍団グロースドイッチュラント(Panzerkorps Großdeutschland)が編成された。 12月13日、グロースドイッチュラント師団から突撃砲旅団がブランデンブルク戦車連隊第2大隊に編入され、12月20日には擲弾兵連隊第3大隊、軽歩兵連隊第1大隊、戦車連隊第3大隊(ティーガー)、砲兵連隊第4大隊が軍団直轄部隊となり転出した。 1945年1月12日、ロシア軍の攻勢が始まり、ラステンブルク地区に居た師団はプシャスニシ南部での反撃命令を受け移動、第302戦車大隊(Fkl)がGD戦車連隊に配属され、第7装甲軍団の指揮下で戦う。一方、総統命令により装甲軍団グロースドイッチュラント司令部とブランデンブルク師団はウッチ地区に移動した。26日、グロースドイッチュラント師団は戦線を離脱しケーニヒスベルクに向け移動、降下装甲軍団ヘルマン・ゲーリングの指揮下に入り、30日、ケーニヒスベルク南西のブランデンブルク周辺に展開した。 3月23日、激しい防御戦闘の末、バルガ半島に押しやられ、29日に海軍上陸用舟艇により脱出した。グロースドイッチュラント師団は人員が4,000名前後まで減少していた。 4月、師団はザームラントへ渡り戦闘を続行。4月25日、師団はピラウ周辺の戦闘で完全に壊滅した。数少ない残余のうち数百名はシュレースヴィヒ=ホルシュタインまで海路撤退し、イギリス軍に投降した。多くの兵士は置き去りにされ、ソ連軍への投降を余儀なくされた。彼らはいつともしれない間、たびたび死の危険に直面しながらソ連の強制労働収容所(グラグ)で働かされることになった。 1945年初頭、グロースドイッチュラントの一部から装甲擲弾兵師団クーアマーク(Panzergrenadier Division Kurmark)を創設し、戦争の最後の一ヶ月を戦い続けた。ブランデンブルクおよびクーアマークの部隊兵はグロースドイッチュラントの部隊章を身につけていた。
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