衛立煌側近となるとは? わかりやすく解説

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衛立煌側近となる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 23:55 UTC 版)

郭寄嶠」の記事における「衛立煌側近となる」の解説

清河陸軍第一予備軍官学校を経て1923年民国12年8月保定陸軍軍官学校第9期砲兵科卒業したその後、郭寄嶠は奉天派東北陸軍指揮官である郭松齢部隊所属することになる。1925年民国14年11月郭松齢馮玉祥連合して東北国民軍結成、反張作霖の兵変を起こしたが、翌月敗北処刑された。東北国民軍の残軍は、同軍参謀長であった魏益三により国民軍第4軍改編されて馮の下に属し、郭寄嶠も魏に従っている。 郭寄嶠は魏益三重用されて同軍参謀長昇進した1926年民国15年)夏、魏は兵糧不足から馮と対立して呉佩孚降り、討赤聯軍第8軍軍長となったため、郭もそのまま同軍参謀処処長となる。同年冬、呉が国民革命軍北伐軍敗北したため、魏はさらに易幟して国民革命軍30軍長となり、郭も同軍参謀長となったこの間の魏は度重なる易幟に際して様々な電文発したが、原稿は郭が作成したのである北伐完了後、郭寄嶠は魏益三能力見限り湖南軍の何鍵をまず頼りその参謀長となった。しかし、何は地元出身者優遇したため、郭はやはり長く留まることはできなかった。1930年民国19年初めに安徽省出身衛立煌率いる第45師へ転じ、同師参謀長として起用される。1932年民国18年5月、第45師が第14軍(衛がそのまま軍長)に昇格したことに伴い、郭は同軍参謀長に任ぜられた(翌月軍事参議院参議兼任)。 この間、郭寄嶠は紅軍中国共産党討伐福建事変鎮圧などで手腕示し、衛の信任獲得している。1936年民国25年1月、郭は陸軍少将銜を授与されまた、この頃までに藍衣社中華民族復興社)に所属している。同年12月西安事件勃発した際には、衛と共に張学良拘留された。翌1937年民国26年4月陸軍中将昇進している。

※この「衛立煌側近となる」の解説は、「郭寄嶠」の解説の一部です。
「衛立煌側近となる」を含む「郭寄嶠」の記事については、「郭寄嶠」の概要を参照ください。

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