藤原信盛とは? わかりやすく解説

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藤原信盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/15 06:37 UTC 版)

 
藤原 信盛
時代 鎌倉時代中期
生誕 建久4年(1193年
死没 文永7年(1270年
別名 大堀池宰相、藤宰相、藤相公
官位 正二位参議
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家真夏流
父母 父:藤原盛経、母:小槻広房の娘
兄弟 信盛、季盛、良盛、盛厳、教盛
経業、親業、覚盛、盛智、良信、盛厳、憲信、源宗雅
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藤原 信盛(ふじわら の のぶもり)は、鎌倉時代中期の公卿藤原北家真夏流勘解由使長官藤原盛経の長男。官位正二位参議。別名は大堀池宰相[1]藤宰相[2]藤相公[3]

経歴

後鳥羽院政期中期の承元2年(1208年文章生に補せられる。建暦2年(1212年叙爵建保2年(1214年七条院御給従五位上へ昇進し、建保4年(1216年中宮権大進を兼ねる。貞応2年(1223年後堀河天皇五位蔵人に補せられ、宮内少輔衛門権佐を歴任。

寛喜3年(1231年)蔵人を辞して右少弁に任ぜられる。翌貞永元年(1232年文章博士を兼ねる。翌貞永2年(1233年)に博士を辞すると、同年従四位下権右中弁文暦元年(1234年右中弁文暦2年(1235年従四位上嘉禎2年(1236年)左中弁、嘉禎3年(1237年正四位下右大弁弁官を務めながら順調に昇進し、翌嘉禎4年(1238年蔵人頭に補せられた。

延応元年(1239年参議に任ぜられ公卿に列すると、仁治元年(1240年従三位に昇進した。この叙位では同じく四位参議の藤原実光・滋野井公光も従三位に昇進しているが、一度に四位参議が3人とも従三位に叙せられるのは異例のことだった[4]

その後も仁治4年(1243年正三位建長3年(1251年従二位と昇進を続けた。この間、伊予権守越中権守と地方官を歴任。建長7年(1255年正二位に昇進し、大宰大弐を兼ねる。

文永7年(1270年)8月に薨去、享年78。

人物

延応2年(1240年)の改元時に以下の3案を勘申したが、採用されなかった[5]

  • 「大応」-『史記』の「輔徳天下大応」による。
  • 「興文」-『貞観政要』の「興文布徳施恵、中国既安」による。
  • 「康豊」-『毛詩』の「自天降康豊年穣々」による。

この時、菅原為長が勘申した仁治が採用された。

官歴

公卿補任』による

系譜

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d e f g 近藤芳喬『宮廷公家系図集覧』(初版)東京堂出版、1994年、22頁。doi:10.11501/13134523ISBN 4-490-20243-1https://dl.ndl.go.jp/pid/13134523/12025年11月15日閲覧 
  2. ^ 平戸記』仁治元年7月6日条
  3. ^ 平戸記』仁治元年11月15日条
  4. ^ 平戸記』仁治元年11月15日条に、「今夜有加敍云々、藤相公信盛敍従三位云々、四位宰相三人、一度敍三品、希代事歟」とある。
  5. ^ 平戸記』仁治元年7月16日条
  6. ^ a b c d e f g h i j 尊卑分脈
  7. ^ a b c d 公卿補任



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