藤井松平氏統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/02 15:51 UTC 版)
仙石氏に代わって、松平忠周が5万8000石で入った。 初代・忠周は領内の支配体制を固め、京都所司代や老中を歴任している。享保13年(1728年)に忠周は死去し、後を子の松平忠愛が継いだ。このとき、弟の松平忠容に川中島の内で5000石を分与されている。このため、上田藩領は5万3000石となる。 寛延2年(1749年)、忠愛は隠居してその子・松平忠順が継いだ。この忠順の宝暦11年(1761年)に大規模な百姓一揆が発生した。(上田騒動)天明3年(1783年)に忠順は死去し、その子・松平忠済が継いだ。ところが忠済は嗣子に恵まれず、彼の晩年には相続問題が発生。このため、分与した忠容系統から松平忠学を養嗣子として迎え、文化9年(1812年)に忠済は隠居して忠学に家督を譲った。この忠学は有能で、翌年には藩校・明倫堂と武芸稽古所(演武場)を設けている。また、軍制制度・土地制度の改革なども行なっている。文政13年(1830年)に忠学は隠居し、姫路藩より迎えた酒井忠実の子・酒井玉助を養子とし、玉助はのちに松平忠固と名乗り家督を相続。忠固は奏者番・寺社奉行加役・大坂城代・老中などを歴任する。第13代将軍・徳川家定の嗣子をめぐって南紀派と一橋派による争いが起こると、忠固は南紀派に与して井伊直弼の大老就任などに尽力した。しかし忠固はやがて直弼の安政の大獄問題から対立して老中職を罷免され、安政6年(1859年)に死去した。忠固の後はその子・松平忠礼が継いだ。ところが亡父が幕政に参与して藩政を顧みなかったために藩財政が悪化し、藩内部では藩政の主導権をめぐって藩内で政争が起こるなどの混乱が続いた。 戊辰戦争では新政府側に与して北越戦争、会津戦争に出兵する。明治2年(1869年)、忠礼は版籍奉還を行なって藩知事となったが、同年に領内で大規模な騒動が起こった。明治4年(1871年)の廃藩置県で上田藩は廃されて上田県となる。そして同年11月、上田県は長野県に吸収された。
※この「藤井松平氏統治時代」の解説は、「上田藩」の解説の一部です。
「藤井松平氏統治時代」を含む「上田藩」の記事については、「上田藩」の概要を参照ください。
- 藤井松平氏統治時代のページへのリンク