茄子や皆事の終るは寂しけれ
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
冷位 |
前 書 |
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評 言 |
中七以下は当り前のことを言っているが、何故「茄子や皆」なのか解りにくい。耕衣の句に茄子を詠んだ句が結構多い。例えば、 元旦や枯死淡淡の茄子三つ 野渡りや殺佛殺祖秋茄子 炎天を鉄鉢と為す茄子の花 晩年、茄子を鉢植で育て、花が咲き実が生るまでの成長のエネルギーを楽しみ、やがて枯れてミイラのようになるまでを見届ける、言わば死んでいく自分を仮に見ている、風狂に遊んでいるのだと述べている。掲句は茄子を通して、わが身の老いを暗喩しているが、淡々と詠んでいて深刻さを感じさせない。茄子以外にも葱や鯰を詠んだ句も多い。 夢の世に葱を作りて寂しさよ 生葱のうつる古池四五在らむ 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな 笑ひ棲む池の鯰を笑ひけり 虚と実が混ざり合い混沌とした中に独特の存在感を浮き上がらせる、不思議な印象的な作品が多い。 城山三郎著「部長の大晩年」を読んで、その飾らない、禅者風の人柄に共感を覚えた。都山流尺八を習い、観世流謡曲を嗜み、道元禅師に造詣が深いと聞いて一層親近感を覚えるようになった。俳句のみならず絵画や古美術の世界にも興味を持ち、真の師を求めて遍歴した。俳句は小野蕪子に師事、原石鼎の「鹿火屋」、石田波郷の「鶴」に投句、山口誓子の「天狼」同人にもなった。自らも「琴座」を創刊、晩年も俳句への情熱、エネルギーは衰えず、平成9年97歳で大往生を遂げた。 |
評 者 |
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備 考 |
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