茄子焼いて冷やしてたましいの話
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
たましいの話 |
前 書 |
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評 言 |
つぶやきのようだが、作者の俳句観をあざやかに表白している一文がある。いつまで俳句を作ることが出来るか。その間に私を驚かせ喜ばせる私の俳句は現れるか、という前置きがあって 「今は見えていない何かが身の近くにきっとある。そのモノや、その私のココロを、私よ客観写生しなさい」(別冊俳句・平成秀句選集・H19・6) 池田澄子氏の、すでにできあがっている概念をやゝ角度を変えてとらえる見方。「草や木や虫や水が、そこに在り、そこに生かされ生きていると同じ私の存在」(句集・空の庭)という、共生スタンスを背景に、対象からのメッセージを常に少しずらしてとらえる捕獲力はたしかである。 日常的なくりやごとである夏の食事づくりから「たましいの話」へ景は転換飛躍する。生活の中に感じる不透明感、不安感、その先にはややデカダンス的気分がある。 茄子は八世紀中期にはすでに中国から渡来した、なじみ深い野菜だが、この句の裏にはすこしひしゃげたような茄子の姿から、ひとの内臓がイメージされたり、盆の送りに魂棚に置かれる茄子の馬も投影されてくる。 同じ句集に「人が人愛したりして青菜の虫」がある。澄子作品はライトバースとして有名になったが、妙な境涯的もたれがない分、はるかに格が高い。 |
評 者 |
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備 考 |
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