芳流閣の決闘とは? わかりやすく解説

芳流閣の決闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/28 05:01 UTC 版)

芳流閣」の記事における「芳流閣の決闘」の解説

作中文明10年1478年6月武蔵大塚村郷士の子犬塚信乃は、滸我公方足利成氏名刀村雨丸献上するため滸我に赴く。この刀は鎌倉公方家に伝わる重宝で、結城合戦の際に近習大塚匠作の手経てその子大塚番作に委ねられ、番作は死に際してこの刀を信乃託したのだった。 しかし、信乃の滸我行き伯母夫婦の罠であり、村雨丸事前に伯父の手すり替えられていた。滸我で村雨すり替えに気づいた信乃献上の場で弁明試みたが、奸臣横堀在村遮られ聞き入れられず、敵の間者として公方家の武士たちに襲われる逃れる信乃がたどり着いたのが芳流閣屋根の上であった。刀を手にした信乃捕手寄せ付けなかったため、成氏は捕物名人である犬飼見八(のち現八に改名)を獄舎から解き放って信乃捕らえさせることにする。見八はもともと獄舎の長であったが、苛政疑問持ったため、職を解かれて収獄されていた。見八も、信乃とともに士の縁に連なる者である。 灼熱芳流閣上で二人士は相見え、捕り手としての本分を守る見八は十手立ち向かう。ついで組み打ちとなり、二人組み合ったまま屋根の上から利根川繋がれた舟の上転落する。そして物語の舞台利根川下流下総行徳に移る。 義兄弟互い知らず高楼の上で相戦うこのくだりは、『八犬伝』中屈指の名場面一つとされてきた。『八犬伝』を舞台化した歌舞伎でも「芳流閣の場」は見せ場である。原作あるいは歌舞伎のこの場面題材取った浮世絵錦絵多く描かれている(歌川国芳「芳流閣の決闘」、月岡芳年芳流閣両雄動」など)。現在も伝統的な祭り山車装飾にこの場面使われることがある歌川国貞芳流閣上図歌川国貞「教竜閣」(1852年)。歌舞伎役者絵

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