肥料事業からの第一歩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:43 UTC 版)
「ノルスク・ハイドロ」の記事における「肥料事業からの第一歩」の解説
1905年12月2日、マルクス・ヴァレンベリ (シニア) を初代会長とし、主にパリバの出資でノルウェー水力電気窒素 (Norsk hydro-elektrisk Kvælstofaktieselskab) が設立された。一応の創設者はサミュエル・エイデ(英語版)というエンジニアであった。クリスチャン・ビルケランドの開発した窒素固定法により合成肥料を生産した。この方法はビルケラン=エイデ法(英語版)として現代でも知られている。膨大な消費電力をまかなうため、ノトデン近くのSvelgfossenの滝に発電所が建設された。後にリューカンの町を開発し、ノルスク・ハイドロ・リューカン(英語版)の工場を設立する過程で、リューカンフォッセン(ノルウェー語版)の滝も開発されて利用された。 ノルスク・ハイドロの最初の工場はノトデン(1907年開設)に開設され、続いてリューカン(ノルウェー語版)、Tinn(いずれも1911年開設)に開設された。続いて1912年にヌールラン県のGlomfjordで生産が開始された。1930年にはポルシュグルン(ノルウェー語版)郊外のHerøyaの工場が開設された。当初はここは、肥料の出荷および石灰岩の入荷地点として機能していた。1936年からはHerøyaでも肥料の生産を開始した。またリューカンとHærøyを結ぶ鉄道、Rjukanbanenも開通した。この鉄道は1909年に開通し、ティン湖を渡る鉄道連絡船からTinnosbanenの鉄道に連絡し、さらにBorgestadからHerøyaまでテレマルク運河(ノルウェー語版)を通る艀で通じる。この運河はBratsbergbanen鉄道線が1916年に開通して置き換えられた。 1920年代までには、ノルスク・ハイドロのアーク放電により合成肥料を生産する技術は、新しく開発されたハーバー・ボッシュ法との競争に打ち勝って行くことができなくなり、ハーバー・ボッシュ法を利用できるようにするために1927年にドイツのIG・ファルベンインドゥストリーと提携した。1945年の時点で、IG・ファルベンインドゥストリーはノルスク・ハイドロの大株主となっていた。Herøyaの工場は、すぐ近くの電力供給源に依存しなくなったことの結果であった。もはや工場は出荷港の近くにつくることができた。
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