羽毛採取からはく製製造へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
「水谷新六」の記事における「羽毛採取からはく製製造へ」の解説
1898年9月19日、水谷は正式に南鳥島の開拓権を取得したが、前述のようにそれ以前から羽毛採取事業を展開していた。当初は南鳥島に多くのアホウドリがいたこともあって、事業は順調で派遣労働者の賃金も高水準であった。開拓権取得後、東京府は水谷に対して南鳥島の開拓計画書の提出を命じた。水谷は1898年11月に計画書を提出するが、内容的に問題があるとして修正を命じられる。東京都は当初の水谷の計画書はアホウドリの羽毛採集を目的としたものであることが明記されており、開拓の趣旨にそぐわないことを指摘した。その他開拓従事者への利潤の配分、教育や医師の派遣問題への対応についても計画に盛り込むように指導した。結局、水谷は12月になって修正した申告書を提出し、受理された。 1900年9月、水谷は甥の片倉作次郎夫婦を自らの代理人として南鳥島に派遣している。片倉は水谷の甥という記録が残っているだけで、実家と考えられる川上家関係の人物なのか、養子に入った水谷家関係なのか、また妻なをの実家である久下家の関係者なのかは不明である。 乱獲によって南鳥島のアホウドリは急減していった。また遠地である南鳥島は島までの輸送コスト、そして輸送上のリスクも高く、収益を挙げていくのには困難な事情もあった。羽毛採取の事業は成立し難くなり、1900年9月、水谷は3750円で南鳥島での鳥類捕獲の権利を横浜で貿易商を営んでいた上瀧七五郎に売却し、以後、上瀧が主となってはく製用の鳥類捕獲がメインの事業となる。捕らえられた鳥は南鳥島で半製品状態まで加工された上で横浜へ搬送され、主に婦人用帽子の羽飾りとして輸出された。なお、水谷と上瀧との間では契約上のトラブルが発生した、上瀧がはく製販売で多くの利益を得ていることを知った水谷が契約破棄を主張したのである。結局、契約金として7500円が追加払いされ、契約更新後の1902年3月以降は水谷と上瀧と共同事業として利益を折半することで合意した。しかしこの頃には乱獲によって南鳥島では鳥類の姿を見るのも稀な状況となっていた。
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