美術館を巡る論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 01:55 UTC 版)
「ケ・ブランリ美術館」の記事における「美術館を巡る論争」の解説
ケ・ブランリ美術館建設を巡っては多くの反対や論争に直面した。この美術館のもとになったコレクションは、人類博物館の「研究資料」であったものと、国立アフリカ・オセアニア美術館の「美術品」であったものだが、こうした民族資料を人文科学研究の対象物とみるか、美的観点から展示・鑑賞するかで両者に対立があった。特に人類博物館は研究資料が新美術館へ分散してしまうことや民族資料の扱い方の方針に抵抗し、1999年には職員によるストが起こった。 各民族の作ったものは、ケ・ブランリ美術館が主張するように芸術に属するものか、それとも考古学や民族学の資料に属するものか、また「原始美術」とはどのような時代のどのような地域の人々が作るものかといった基本的な問題についての論争も美術館建設に伴って再燃し、今もなお続いている(たとえば現代のオーストラリアのアボリジニ芸術家による作品が、今のオーストラリアの政治的文化的文脈から出た現代美術としてではなく、原始美術の一種として展示されていることに対するオーストラリア人からの批判)。また世界全域の膨大な民族の品物を等しく展示することはスペースの関係上不可能であるが、自国の文化が軽視されているといった不満もある(たとえばカナダのケベック州の人々は、カナダの展示品がほんの数点しかないことに抗議運動を起こした)。その他、美術館の建設経緯、基本方針、建設費に対する批判も起こった。
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