編成と初戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 02:37 UTC 版)
「ミュンヘベルク装甲師団」の記事における「編成と初戦」の解説
「ミュンヘベルク」装甲師団は、1945年3月5日、第3軍管区(de)(ベルリン、フランクフルト (オーダー)、ポツダム)で編成された。1945年3月6日に解散した第103装甲旅団(Panzerbrigade 103)を基幹に編成され、それまで第103装甲旅団で指揮を執っていたヴェルナー・ムマート(de)少将が師団長となった。部隊は、目標としていた水準には至らなかったものの、十分な装備を備えていた。そのため、1945年4月5日には、赤外線暗視装置(F.G.1250)(en)を装備したV号戦車パンターG型10両と、同じくこの装置を装備した装甲擲弾兵中隊1個を有していた。さらに、ヤークトティーガーやティーガーIIなどが配備されていた。1945年3月12日の時点で師団の兵力は6,836名程であった。1945年3月18日、第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」からの歩兵大隊の一部が師団に編入された。ソビエト赤軍が西進してブランデンブルク州の町ミュンヘベルクへ近づくと、師団はテオドール・ブッセ将軍率いる第9軍の機動予備部隊に編入され、ゴットハルト・ハインリツィ上級大将率いるヴァイクセル軍集団の一部を形成した。1945年3月22日、コットブスで初めて戦闘を行いその後、カール・デッカー(Karl Decker)率いる第39装甲軍団(de)と共に、海岸線の回廊でキュストリンの戦い(de)に参加した。 1945年3月22日から25日にかけて、ミュンヘベルク師団は第25装甲擲弾兵師団(25. Panzergrenadier-Division)とともに赤軍の戦車200両を撃破した。3月25日、赤軍はキュストリンでドイツ軍の包囲を完了したが、3月27日にはドイツ軍の最後の反撃で再び回避されることになった。その結果、ソ連軍の砲撃により大きな被害が出た。ミュンヘベルク師団はひどく消耗しており、補充しなければならない状態にあり東部戦線はすでに崩壊寸前にあった。
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